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自分を救えるのは自分だけ…

 でも、一人ではたどり着けないのかも

 

せっかくですので、アスペルガーや自閉症、その他さまざまな悩みを持ち、このサイトまでたどり着いてくださった方々に、私の考えたことなどを読んでもらい、少しの救いや支え、または暇つぶしにでもなっていただけるなら幸いと思い、ブログ感覚で綴らせていただこうかと思います。

 

ここで最初にお話したいことは、私の文章だけでなく、ここの掲示板の皆さんの書き込みや、テレビや本で見聞きしたことなどに対し、あなたが自分と共感できるものではないと思ったとき、「ほうほう、そう思う人もいるのか」「これはつまらなそうだな、やめておこう」とぱったりと、感情を揺らがせることなくいられるか、「私はそうは思わないのに!」とか、「私は違う!」と強いマイナスの感情を抱くことがあるかどうか、ということです。

もしもあなたが自分と違った意見を目の当たりにしたとき、激しい感情に揺らぐものがあるのであれば、あなたの心はまだ自立しきっていないのだと思います。

 

そんな心の不安定さに私は悩み、やっと25歳になった今、前進してきていると感じているので、そのことについてお話したいなと思いました。

あなたアスペルガーなどをはじめ、あなたが「ふつう」だと感じる人に比べてなんらかの負い目を感じている場合、自分の感じたこと、していることなどがどれもこれも間違っているように思う…そんなことはありませんか。

私がアスペルガーだと診断されて始めて手渡された本の帯には、「あなたの存在は間違いではないのです」という一文が。この一文は、私の気持ちをよくわかってくれているなぁと思いました。なぜなら、アスペルガーで、周囲に溶け込めず、何をやっても足並みが違っている自分が、間違った存在に思えてならなかったからです。

 

今でもやっぱり、そう思う瞬間は多々あります。定型発達者であったら、周りに迷惑をかけなくても済んだのかもしれない…と考えてしまうことばかりです。

でも考えてもみてください。人を平気で殴ったり蹴ったりする人、集団でイジメをする人、もっともっと卑劣なことをする人…それに比べて、「空気が読めなくて周囲から浮いている」その程度のこと、どの程度の罪になるのでしょう。

そして、アスペルガーだけでなく、すべての障害や病気は、必要なくして存在しているわけではないのです。

もしあなたの右腕がないのなら、普通の人が右腕でこなしていることを左腕や足でこなしているかもしれません。それはすごいことです。普通なら四本の手足でやっとこなせることを、あなたは三本でこなしているのですから。あなたの耳が聞こえないのなら、耳以外の感覚が研ぎ澄まされ、耳から聞こえてくる情報を鵜呑みにして生きている一般人には感じ取れない何かを得ているのかもしれません。

ただの邪魔者…そんなものは、何の特徴もない平凡な人間のやっかみだなんて思ってしまう瞬間もあります。

いや、そうではありません。さまざまな能力を持った人が集まって、この世界は成り立っているのです。五体満足の人がいて、男の人と女の人がいて、足の不自由な人がいて、脳が少し変わった人がいて、その誰もが、いてはいけないものではないのです。いてはいけないのは、暴行犯だとか、そういった凶悪な類だけだと思っています。必要な悪もある、というのも一つの意見。私は、断じて許すことができません。

 

さて、では、そんな大切なあなたの自尊心について、今日はお話したいと思います。

あなたは自分の存在を大切にしていますか?おそらく、このサイトにたどり着いた方は、そうではないと思います。

自分には価値なんてない、と思うから悩む、そうではありませんか?サポーターの方は、自分やまわりの人間の存在が、正しくないのではないかと悩んだりしていませんか。

 

人間ですから、絶対的に正しいなんてものはありません。正しそうなものはあっても、善悪を裁ける人間なんてどこにもいないし、神様は見えないし、結局わからないのです。ただただ、最善を尽くすために努力して、紆余曲折して成長していくしかないのです。

ですから、あなたに限らず、誰もが、必ず失敗をするのです。もし失敗したことのない天才人間がいたとしても、彼らは私たちをなじる権利などありません。だって、その失敗をしたことのない天才が、必ず善の行いだけをしているか、誰にもわからないのですから。

今、自分が感じている感情が未熟である。だから、この考えに自信を持ってはいけない・・・

それを繰り返し繰り返しした結果、自分を傷つけ、悩み、一歩も進めないでいることはありませんか。

 

そこで私は、「自分の価値」について考えてみることにしました。

自分に評価をつけているということは、自然に他の人間にも評価をしているはずです。あなたは、過剰評価している人と、とても低く評価している人がいるのではありませんか。

過剰評価している人は、たとえば、自分と違って空気がよめて気が効いて、学歴もよくててきぱきしてて、ぐんぐん出世していく人たちだとしましょう。あるいは、いつも笑顔でパワフルで、友達がいっぱいいて、人見知りせず誰とでも話ができて愛嬌のある人かもしれません。

それに比べて、低く評価している人。自分が最も低く、他の人は全員すごいなぁ…と思っている人もいるかもしれませんが、多くは、憎くてたまらない人がいるのではないでしょうか。

その憎い対象は、ずばり、「自分のわずかな自尊心を崩しにかかってくる人」ではありませんか?

 

とにもかくにも、自分の自尊心が確固たる物ではないと、様々な問題が起こります。もしあなたに一人でも一匹でも、守りたい人がいるのであれば、自尊心を高めるのは義務ともいえるでしょう。もし孤独であり、自分なんて必要のない人間だからという人がいるのであれば、せっかく今まで死なずに生き残ってこれたこの身をせめて幸せにしてあげたいと思ってもよいと思うのです。

 

最初に申し上げた、私の文章を読んでいて強いマイナスの感情を引き起こすかどうかという話ですが、これは自尊心があまりに低いと、「私は、こう思う」という意見を崩されたかのように感じ、本来は攻撃するものでもなんでもないことが心の傷になってしまうため、こういった症状が出ている場合、自分の自尊心を高めるトレーニングをしなくてはいけないのです。

 

自分は完璧じゃないんだから、なんて、そんなの当たり前なのです。誰も完璧じゃないのです。永遠に、永遠に誰も、なれないんです。だから、いくら未熟であっても、自分のその「私はそうは思わない」と感じた感情を、胸を張ってとなえること。その勇気が、自尊心をはぐくんでくれます。

攻撃的になるわけではありません。「私は違うと思うから、あなたの考えを直しなさい!!」と怒鳴り散らす。これは、全く成長になっていません。これは、自分の自尊心の低さと同じ低さに相手を押し込めて、一時的に安定をはかるだけの行為です。

本来の自分を育てなければ、何の成果も出ないのです。

 

そして、自分で自分に言い訳をしないことです。言い訳をするのは卑怯だから、ではありません。何の解決にもならないからです。

とてつもなくつらいことがあって、大声でわめき散らしてしまった。このことを、あなたが後で後悔したとします。そのときに、「あのときの私はどうかしてたんだわ、あっはっは」と言い訳しては、自分を認めることにはなりません。

そのときの、本当に辛くて辛くてたまらなかった「自分の感情」を「認める」ことが大切なんです。そして具体的に、小説のように表現すると、より効果的だと思います。

「あのときは本当に辛かった。胸が強い男の人の手で雑巾絞りをされるように苦しかった。胸が圧迫されて、大声を張り上げると、少し気持ちが楽になった。」といったように。

未熟である部分も認めてあげること。誰が何といおうと、「私はこう思う。間違っているかもしれないけれど、これが正直な私の気持ち。」というのを、状況によっては口に出す必要があるかもしれませんが、口に出さずとも、常にそういう姿勢でいられるように、感情がたかぶったときは自分と向き合い、今現在の自分のありのままを認めましょう。それが、一人でできるケアの一つだと私は思います。

 

さて、タイトルにもあるとおり、一人だけですべてのケアをする必要はないと私は思っています。

何もかも人まかせでは、いつまでも自分は育ちません。でも、人の手助けを一切借りてはいけないと思っている人がいます。時に、大勢の人間から傷つけられ、何の抵抗もできないとすぐに諦め、一人で泣き寝入りしてしまう人もいます。

それはやっぱり、違うと思うんです。

時に、人は必要だと思うんです。

自分と異なる考え方の人間とともにいること。言葉を交わすことだけでも、人を成長させますし、それだけではなく、いじめや理不尽な思い、つらい病気との闘いで、救いの手を求めるのは、賢い考えだと思うんです。

とても嫌な言い方をすれば、一人で何もかも解決しようと考えるのは、「自分ひとりでこの大きな難問を解決できるんだ」とちょっと思い込みすぎているとも言えます。一人で解決できない問題は、人に助けを求めてみる。その結果、自分もまわりも幸せにする結果になるかもしれない。そうじゃないかもしれないけれど、行動を起こしてみることは、何もしないより良いはずです。

 

人に助けを求めるのは、勇気がいることですよね。勇気が出ない、しり込みしてしまう原因も、多少なりとも自尊心のなさからくるのではないかと思います。

「私は幸せになるべき人間では、ないのだ…」と思うことが、助けて、と手を伸ばすのをやめさせてしまう。そうではありませんか。

あなたには幸せになる権利があるということを知るために、努力をしてみてはいかがでしょうか。

それはとても難しい、険しい道のりです。自分と向き合うことには引き裂かれるような苦しみが待っています。

でも、じゃあ今のほうが楽…ですか?そうではないでしょう。今だってつらいはずです。

同じつらさなら、いつか報われるかもしれないつらさのほうが、生きがいがあるのではないでしょうか。いつか、幸せになるために。勇気を出して生きていきましょう。

 

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